Skip to content

第651話 荒川放水路通水100周年に寄せて(2024.10.15)

 荒川流域で暮らすようになって早いもので28年半ほど。東京モノローグは今年9月でまる27年になったので、流域でのあれこれというのは概ねその中に綴られている恰好になる。それらを振り返ると筆者にとっての荒川とは何ぞやというのが少なからずわかる訳だが、川の長い歴史からすればごく限られた話につき、多くを語るには及ばない。昔々の荒川の流路とか、その変遷とかについてはとてもとても。現在の隅田川=かつての荒川だった時代の後、即ち岩淵辺りから新たに放水路がつくられ、葛西の辺で東京湾に注ぐようになってからが今に至る姿であり、それならばある程度はわかるといった感じである。

荒川の大まかな推移はこちらの通り。右の「江戸時代以前」、左の「西遷以降」、中央の「明治以降(放水路の完成後)」の順で流れが変わっている。

 水がなかったところに水が流れ始める、その記念すべき通水式が行われたのが1924年(大正13年)10月12日とのことで、2024年は「荒川放水路通水100周年」にあたる。100年のうちの28.5年となればそれなりだろうか。以下、カテゴリ別で荒川に関連する話題をまとめてみようと思う。

岩淵水門(当時)の竣工と通水開始は1924年。その年に一気に東京湾まで通じたのではなく、1930年を以って通水が完了したという点がポイント。2030年も何かしらの記念事業が催行される可能性はある。
赤羽駅東口に設置されていた通水100周年のPRボード。目立たないがカウントダウン表示も付いていた。(10/12の18日前:9/24に撮影)
「荒川放水路通水100周年記念デザインマンホール」。北区のリリースによると、10/12までに3か所設置されることになっていて、その一つが赤羽駅周辺設置分のこちら。数字の0を長方形にして、水門に見立てるデザインはなかなかだと思う。
当の水門近くの道路にも記念デザインを発見。すでに色が落ちつつあって、マンホールと比べると少々残念な印象を受ける。

クリーンアップ・フィールドワーク関係

 荒川を初めて目にしたのは、川越市在住だった頃に遡る。川越線で大宮に向かった時かその逆かだが、南古谷~指扇で見ていることは確か。1975年に一度は通っているので、実に50年近く前になる。埼玉だと放水路ではなく本流になるが、通水後の姿ということで言えば51年が経った荒川を見ていたことになるから、2024年時点に比べればまだ年数は浅め。ともかく筆者としては古い記憶にあたる。

 荒川そのものにアプローチした年となると、それからしばらくしてからの話で、明確なものを挙げるとするとやはりクリーンアップ関係ということになる。「荒川クリーンエイド」に参加したのは、1994.10.23が最初で、この時の会場は岩淵。放水路通水70周年にちなんだ取り組みでもあった。以後、自分でも会場を担当したり、市民団体としての荒川クリーンエイドに、スタッフ、運営委員、理事などで関わったり・・・程度に深い浅いはあるが、何だかんだで概ね11年(1996年度~2006年度)。荒川とともに過ごした日々というほどではないかもだが、それに近いものはあると思っている。

 単に拾って処分してというのではなく、いわゆる調査型クリーンアップが活動のメイン。加えて、水質、魚や鳥など生物の調査、川に親しむ・ふれる環境学習の類(ネイチャーゲームを含む)もあって取り組みは多様だった。ボートに乗ったり、釣りや投網で獲った魚をその場で調理・試食したり、荒川の上流・源流部でのフィールドワークに参加したりというのもあり、30代は何かと荒川にご縁があったなぁと思う。

 収集したゴミを品目別に調べ、その抑制策などを関係企業・団体と考え実行するのが趣旨のクリーンエイドだが、30年が経過してなお取り組みが続いているということは、有効な手立てが確立できていない裏返しでもある。漂流・漂着ゴミが目に見えて減るなどすればクリーンアップ活動も程々で済む。そうした考えを念頭に、自分なりの対策や試案を交えて綴ったのが拙筆長編「漂着モノログ」(全80話)で、こちらも早いもので最終章の公開を終えてから16年が経とうとしている。設定に多少の古さは出てきていると思うが、根本的な考え方は今でも通用するであろうとの自負はある。

 クリーンアップやフィールドワークで得た知見の集大成といった側面もある。執筆している間はよく現場に出かけ、実際に調査し、記録としての撮影も多々。荒川と接する機会が最も多かったのはこの2007年、2008年だったと言っていいかも知れない。

  • 第12話 寒中クリーンアップ(1998.3.1)
  • 第28話 荒川クリーンエイド’98 in 荒川赤羽緑地(1998.11.1)
  • 第73話 間伐作業(2000.9.15)

河川行政、荒川知水資料館

 クリーンエイドに勤しんでいた時期を中心に、地元でとかくお世話になったのが荒川知水資料館荒川下流河川事務所。どちらも国土交通省に関係するため、同省の河川行政について知るところ思うところも当時は多くあった。

 近年は縁遠くなっていたが、今回の通水100周年をきっかけに6/30に資料館を訪ね、10/12の記念日当日も館内をひととおり見物。改めてよくできた施設だと思った(しかも入館無料)。アニバーサリーイヤーを機に来館者がさらに増え、荒川や流域に対する想いを深める底上げにつながることを期待したいものだ。

荒川知水資料館正面(2024.6.30撮影)。オープンしたのは1998.3.29(日)。建物外観は昔からこんな感じ。
資料館での企画展「荒川放水路通水100周年」(一部)。3/19~6/30の開催で、筆者はその最終日に来館。展示は「荒川放水路はじまりの物語」「通水100周年に向けた取組み」「通水100周年に向けた今後の予定」を一枚でまとめたもので見やすかった。

 さて、10/12の記念イベント「荒川放水路通水100周年アニバーサリーフェス」は、放水路の起点にあたる岩淵水門周辺で行われ、四つの会場で展開。地元で開催されるとあれば行かない手はないのだが、所用が重なった上に、東京→新大阪で「ドクターイエロー」の団体臨時列車が走るという鉄道系一大トピックもあったりで、フェス向けの時間は限られることに・・・用件の合間を縫って会場を見に行く形になった。

通水100周年当日の表示(@荒川知水資料館)。10/12で「000」日・・・記念すべき一枚(と言えるかどうか)。
アニバーサリーフェスの案内ボードと通水100周年記念の幟。10/12限定セットといったところか。
新大阪行き「ドクターイエロー」(T5編成)。東京14:51発で、1分後には有楽町を通過。東京交通会館3階のテラスで何とか撮影。

 会場は、荒川知水資料館(アモア)エリア、体験エリア、中之島エリア、河川敷エリアから成り、きちんと時間がとれたのはアモア程度。体験メニューとしては、手漕ぎ式の「Eボート」体験、水門の操作室見学、災害対策支援船「あらかわ号」の乗船(これは事前予約制)などがあったが、どれも合わず… 年に一度でいいので今後も実施してほしいものだと思った。

アニバーサリーフェス「AREA MAP」。河川敷エリアの自治体広報ブースも行きたかったが、11:30スタートではどうにも… 会場を訪れたのは10時半過ぎから11時頃まで、13:50頃から10分ほど、16時前から約20分の3回。合わせれば1時間ほどになるものの体験的要素はゼロ。
ならし運航中?の「あらかわ号」
中之島を背景にEボートが行ったり来たり。島でキャンプする人の姿もあった。
岩淵リバーステーション「体験エリア」での災害対策支援車両の一例。左から、照明車、ポンプ車、風水害対策車。
イベント終了後、帰路につくまでが車両を近くで見るチャンスだった。それにしてもこの照明車、どういった場面で使われるのだろう?

大荒川

 放水路は言うなれば人工河川だが、その放水路に至るまでの荒川本流は一応自然の川。身近にある自然地としてこれほど大きなものはなく、その川幅の広さから時に湖のようにも映る。

100周年記念の一枚(2024.10.12撮影)。こうして切り取ると川というよりは池か湖のよう。

 特に上流・中流域で大雨が降れば、支流から集まった分も含め水量が増し、河川敷を覆うレベルに達することも。そうなるとただの荒川では済まず「大荒川」といった様相になる。自然の脅威を思い知るとともに、並外れた漂流・漂着ゴミの量にまた唖然となるのが増水時の荒川。そうした一面もあることを重々心得た上で、景観を楽しんだり、行楽やレジャーで足を運んだりというのがいいだろう。

 荒川を大きく扱ったのは5年前の第532話がラスト。赤水門(旧岩淵水門)が国の重要文化財に指定されるなど話題がない訳ではなかったが、空く時は空いてしまうものである。自転車で河川敷を走り橋を渡りというのは高頻度ではないものの、日常の一端ではある。撮るものは撮っているので、令和になってからの分でめぼしいものをいくつかご紹介しようと思う。ひとつご参考まで。

隅田川と青水門(岩淵水門)。水門の奥が荒川(放水路)になる。(2019.7.17撮影)
岩淵水門の解説。水門の位置関係はこちらで。
荒川の流れを隅田川(かつての荒川)に向かわせたり、増水時には門を閉じて隅田川が氾濫しないようにしたりと重要な役割を担う青水門。
青水門の門扉にはこうした銘板が取り付けられていて、その歴史がわかる。門扉ごとに年月には違いがあるようで、一つは「1979年9月」と記されていた。45年と聞くと結構な年数に思えるが、堂々現役。
青水門よりも上流側(直線距離で300mほど)にある赤水門(旧岩淵水門)。1924年竣工、1960年改修、1982年(水門の)運用停止という歴史を持つ。
水門の赤色がよく見えるのはこちら側。赤羽名物の赤水門でおなじみだった訳だが、重要文化財となるとより広域な扱い(関東の名水門とか)になりそう。(ここまで2019.7.17撮影分)
晴れた日に撮るとこんな具合(2024.10.12、16時過ぎ)。秋の西日を受け、赤色がより強調される感じに。
新荒川大橋から見た赤水門と青水門(2021.4.7撮影)
自転車で川口方面に向かう際に通るのが新荒川大橋。条件が揃えば富士山が望める。(2019.12.1)
この時の富士山には笠雲がかかり、夕照をバックに幻想的な姿を撮ることができた。笠雲が見られるということは天気は下り坂。兆候通り、12/2の東京は「大雨時々曇後一時晴」だった。
山並みと荒川の間に市街地という構図。暗くなってくると岸辺も黒々となるため、川という感じがしない。海辺のようにも映る。(2021.2.27)
新荒川大橋からJR線の橋梁までは600m余り。川の青、京浜東北線の青、空の青など、同じ青でもそれぞれに違いがあることがわかる一枚。後方の山々は埼玉県と群馬県の県境を成すもので、空気が澄んだ日にはくっきり見える。(2020.11.11)
JRの鉄橋の南側(一つ上の写真で左側)では、わりと長いスパンで堤防のかさ上げ工事(地盤改良+築堤盛土)が行われていた。堤防上から列車を撮影するのにいい場所だったが、そこが完全に遮断される形に。撮り鉄泣かせの工事だったと言える。
かさ上げ工事の施工エリア(鉄橋西側)。ここから線路際までは200m弱・・・列車が遠い。(2021.4.7撮影)
堤防上の道路からの眺めも良好。9月になればヒガンバナもチラホラ。(2019.9.29)
2024.1.16、東京スカイツリー「天望デッキ」(フロア350)から見た荒川など。手前が曳舟駅界隈で、京成押上線の線路が上に延びていくのがわかる。京成線の橋梁の右は木根川橋、左の二つの橋は四ツ木橋(最左)、新四ツ木橋。ここに見えている荒川放水路の範囲は3kmほど。放水路の全長は約22kmだからその壮大さがわかる。

 川沿いを歩く、走るというのはできても、泳ぐというのはさすがにNG。アクティビティとして体験できそうなものはそれなりにやったと思っているが、グランドの利用(野球、サッカーなど)とかキャンプとかの経験はない。記念企画でも何でもとりあえず面白そうなイベントやワークショップがあればぜひと思う今日この頃である。


こちらもどうぞ

続 東京百景

Comments are closed, but trackbacks and pingbacks are open.