感染リスクを抑えるという観点からも、「できるだけ離れる」または「できれば避ける」のを行動原理としておくのは有意義だと思う。
普段の生活でもそれらが有効と思える場面は多々あるが、一定の意識がないとなかなか実践できないもの。咄嗟に「離れる」や「避ける」ができないのは、人の有する特性に起因するという見方もできそうだ。筆者は、その特性の一つに「同調性」があると見ている。無意識に動作を合わせたり、多勢に追随したりといった類である。
いい面での同調も勿論ある。だが、そうでない同調も往々にしてある。という訳で、今回の「べからず」は「その同調、ちょっと待った」的な例を五つ挙げてみようと思う。これらをお互い意識することで、リスクの低減につながればというのが趣旨。ひとつご参考まで。
5.対面からの接近など
歩いていても遭遇する頻度は低くないが、案外多いのが自転車での遭遇例。遠くから察知して、こちらが明らかに別方向にハンドルを切っても、何故か同じ向きにハンドルを合わせてくるというケースが時々ある。合わせられたら改めて別方向に切れば済む話だが、そういう人物はさらに合わせてくることが少なくないため、あえて変化を起こさないようにする。と、先方もそのまま動かなくなるもので、それはそれで危なっかしい。結局、どう動いてもあわや衝突!という事態が起こってしまうのである。(実際に、ご婦人どうしで衝突した現場を目撃したことがある。ぶつかる直前まで、お互いのハンドル操作がミラーリング状態だったので、起こるべくして起こったという一件。幸い大事には至らなかった。)
先に動いたものに対して、無意識に合わせてしまうというのは正に同調性の為せる業。対面した際の接近・衝突の回避策として、「両者原則左に」といったルールがあればよさそうなものだが、自転車の教則や教習所でもない限りは浸透しないだろう。筆者なりの工夫として、最近では無条件にブレーキをかけるようにしている。ブレーキ操作まで同調されたらさすがにどうかと思うが、それは今のところない。
4.座席同調
飲食店では、お客が少ない際に「お好きな席へどうぞ」となることが多々。言うなれば自由席である。先客がいれば、一定の距離を保つ感じで席を選ぶことも可能。お互いの動線にゆとりを持たせる上でも距離感というのはポイントと考えるが、時にそれを保てない人を見かける。「そこに人がいるから、そこへ」という同調パターンである。
これは飲食店に限らず、一定の広さの空間に席が設けられている場では共通の話。列車の座席も然りで、車内が空いている場合はわざわざ固まって席に着く必要はない。それでも、近くで目に留まった席にさっさと着いてしまう乗客は多く、気が付けば部分的に小集団ができていたりする。人が人を呼ぶということかも知れないが、リスクを抑える観点からもひと工夫ほしいところだと思う。
3.流言飛語
「〇〇がいい」とか「□□がなくなる」とかで人が大挙して動く件は世の常たるもの。今回も「あぁ、またか」という印象を受けるが、本来ならより慎重な行動が求められるところ、そうなっていないのがどうも気にかかる。
図式として、「行列や混雑→感染リスク増」というのがあるとしたら、そこまでして買いに行くのは果たして…となる。根拠の乏しい流言飛語の類に振り回されているとすれば尚更だろう。同調してはいけない典型だと思う。
2.スピードの追従
第525話の「べからず」でも記したが、クルマにおけるせっかち事例として、車間距離不十分と信号無視の二大要素がある。心理面が大きく左右するとすれば、これらはスピードに対する同調性によるものと考え得る。前を走るクルマに同調するあまり、車間は縮まる、信号の変わり目に関係なく突っ走る... ゆとりを持つ方が渋滞を抑止できるという話もある。クルマの運転において、同調(特にスピード面)は要らない。
似たような例で、下りエスカレーターでの人の動きというのもある。先を行く人がおらず、後方に人が立っている場合、エスカレーターで歩みを進めると多くの場合、その後ろの人物は同じように降りてくる。あえて途中で歩を停めると、その人物も停止。これは、速度を伴うものに追従するという同調行為の一つと筆者は考える。ぜひ検証してみてほしいと思う。
1.意識面での同調
ホールや会館などでは、イベント終了後に一斉に人が動き、出入口が混み合うのが常。そこでは時に、両開きの扉なのに片側しか開いておらず、人の流れが狭まってさらなる混雑が生じるという状況を目にする。気が利く会場スタッフがいれば、途中からでも扉を両方とも開けて混雑を緩和するものだが、そううまくはいかないもの。スタッフがいてもいなくても変わらないというケースは案外多いのではないだろうか。ここで心したいのは、参加者側の意識。片側しか出られないという同調がさらなる混雑を招いているだけで、それを打破できる誰かがいれば、スタッフがいようがいまいがもう片方を開けることはできるのだ。
筆者はその誰かでありたいと常々思っていて、実際に敢行することもある。同調から離れる、同調を避けるというのは、距離や空間だけではない。意識面も重要なのだと考える。